指輪

 酷く寝苦しい。  今夜飲んだアルコールが相当回っているようだ。
 確かに、今の体では少し無茶な飲み方だったかもしれない。どこからか沸いてくる、やけに顔のニヤついた客に差し出された酒は、遠慮なくあらかた飲み干したからだ。

 心臓に合わせて頭も揺さぶられるような感覚。神田はその長い髪を思い切りかき乱した。どうやら自分は酔いが回ると気持ち悪くなるタイプでもあるらしい。
 ――これも、こういう体になって、初めてわかった。
 けれどそれ故にこういう時の対策も知らず、神田はひたすらシーツを握るしかできない。
 しかしやがてその慣れない苦しさも、訪れた睡魔によって薄れていき、――……


 * * *


(ここは、どこだ)
 目の前に飛び込んできた光景に、神田は自らの目を疑った。
 辺り一面に咲き誇る蓮の花が、神田を取り囲んでいる。その多さといったら、今まで彼が見てきたものとは桁違いだ。
 彼の心はまるで図太い槍で突き刺されたような痛みを覚えた。……この花を見るとどうしたって、自らの意志に反して全てを思い出してしまう。花弁の色合いの美しさに比例して、心を占める悲しみの色も濃い。
(なんだってこんな景色を夢で見なくちゃならないんだ……)
 夢はその人の深層心理を表すとどこかで聞いたことがあるが、これもその類だろうか。
 そう推測してはみたものの、神田にとって自分の深層というと、途端に話の焦点は夢の話からそちらに移らざるを得ない。――すなわち深層とは、自らの核とはどこなのか。セカンドの個体としての自己なのか、それとももっと深く深く潜った先の……
(オレは一体、なんなんだ)
 これまで幾度となく繰り返した問いに、未だ納得がいく答えが出たことはない。
 自らが何者なのかはっきりと自覚できない、それはあまりにも人間として致命的な欠陥ではないか。
 神田は一人、ふっと嘲笑し口を歪めた。
(いや……人間でもない、か)
 そうやってすっかり思考の迷宮に迷い込んだ神田の思考を邪魔したのは、自分の立っている木道の前方に見えた赤銅色だった。
 少し見ていないだけでは忘れるはずもないその髪色に、神田の声にも動揺が混じる。
「ラビ……?」
 呼ばれた彼は、にこりと笑って片手を上げた。


 * * *


 ラビは最後に自分が見たのとほぼ同じ姿をしていた。
「なんか、こうやってユウと話せてるの、夢みたいさ。……まあ、実際、夢なんだろうけど」
「やっぱり、そうなのか」
 彼と同じく木道にそのまま座りこんで、その両足を投げ出した神田が隣のラビの顔を覗き込むと、ラビは困ったように苦笑いを浮かべた。
「オレもよく分かんないけど……そうじゃなきゃオレ、こんなにピンピンしてないしさ」
 何のことだ、とか、今お前はどこに、とか、聞きたいことはたくさんある。
 けれどこの雰囲気が、その問いかけを許さない。
(――というより、オレの方も、今は何も考えたくないんだ)
 この不思議な空間では。
 妊婦の腹の水の中に入っているような心地がする(ただ、そんな感覚はただの外の知識でしかないが)。けれど別段ここが嫌なわけではない。むしろ、恐ろしいほどに体が馴染む。最早自分が息をしているのかどうかもあやふやになってしまいそうだ。
(でもきっとこんなに心地良いのは、ここだから、だけじゃない)
 それを認めるのはひどく悔しいことだが。隣に彼がいなければ、こんなに心穏やかにもならないのだろう。
 しかし穏やかと、混濁というのは、実はとても似通っていることもある。
 いつの間にか空間に呑まれて、先程まであんなに聞きたかった、その意志の強さも、いつの間にか薄れてしまっている。
(きっと今聞かなければ後悔する、けれど、今は……)
「まあいいや」
 と、神田の心を代弁するかのようにラビが言った。
「ユウに会えてるんだもん、なんかもう、このまま覚めなくてもいいくらいさ」
 神田はやけに暢気な彼の声を聞いたあと、「オレもだ」と言う代わりに、彼の手首を握った。
(……生きてる人間の手だ)
 握られた方は、他人の体温に僅かに体を揺らし、そしてふたり分の重なる手を見て、ぽつりと言葉を漏らした。
「……おれ、初めて知ったんだ」
 一呼吸置いて、神田が「なにを」と問う。
「恋って、こんなに悲しいものなんだね」
「……は?」
「…誕生日おめでとう、ユウ。生まれてきてくれてありがとう。好きだよ」
 残酷な言葉だ、と神田はぼんやり思った。
 と同時に、思う。聡い彼はわざと言っているのだ。
 おれたちは別の人間だ。赤の他人だからこそ、こんなにも愛おしいのだと。
 そこまで悟って、神田は自らの顔を隠すように俯いた。


 蓮の花に囲まれて、2人寄り添う。
 ふと、ラビが神田に向き直って顔を覗き込んだ。
 その瞳は、何かの終わりを知っているようだった。
「ユウ、」
 彼の唇が、自らの名前を紡ぐ。(もう分かっているんだろう)と言い聞かされている気分になって、神田はようやく、この場が永久に続かないことを思い出した。
(まさか、もう、)
「今日この日に会えてよかった。できたらこのまま、ずっとこうやって手ぇ繋いでいたいんだけど、」
 そう言って、ラビは名残惜しそうにゆっくりとその指を外していく。
「ラビ、」
「もし万が一繋いだまま起きちゃって、ユウがこっちに来て巻き込まれたりしたらいやだし」
「おまえ、……」
 いま、どこにいるんだ、
 と、ついに神田は口にした。
 ラビは、答えなかった。
 その彼は、今にも泣きそうなその崩れた顔を直そうともしない。
「……離れていても、ユウのこと、想ってるよ」


 * * *


 淀んだ意識の池から急激に浮上し、その勢いでベッドから起きあがった神田は、肩を大きく揺らして酸素を吸い込んだ。
 やがて呼吸が安定していくと、隣からはジョニーの寝息が聞こえてくる。
 窓から朝日が差し込む気配もなければ、隣の寝息以外は音ひとつしない。まるで、この世の全てが静まりかえっているようだった。
 ただ自分の頭の中だけで、彼の声がする。

『忘れないで、ユウはひとりじゃないよ』

 どうにもたまらなくなって、神田は、そのまま膝を抱え込んだ。
「…でもおれはいま、ひとりだ」


了    2012.6.6 

※未成年の飲酒は法律で禁じられています。

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